COLUMN コラム

主体的真理を捉えるためには、どうしたらいいのか?①

落合文四郎
Alue co.jp CEO
2021.05.06

前回の記事においては、主体的真理の純度を高めていくために、精神的成熟の前段階の願いを大切にして向き合っていくことの重要性についてお話ししました。

主体的真理シリーズもいよいよ大詰めです。主体的真理を捉えるためには、どうすればいいのかについてお話ししたいと思います。

前提として、主体的真理は、言葉で全てを表現できるものではなく、イメージ的なものであり、エネルギーの塊のようなものですから、綺麗に言語化するための方法論ではなく、主体的真理とのつながりを感じることができるための方法として捉えていただければと思います。

主体的真理を捉えるアプローチとして、大きく2つあります。1つは、これまでの経験や現在の活動から、自分が変わらずに大切にしていることの源泉を辿っていく方法。もう1つは、自分の意識の重心を直感的・抽象的に捉えて、その妥当性を検証する方法です。この記事では、前者の具体的経験をもとに主体的真理を捉えるアプローチについて話します。

原体験から主体的真理を捉える
主体的真理は、内なるエネルギーの源泉ですから、これまでの経験において、そのエネルギーが具現化したものが現れている可能性が高いです。これまでの経験を振り返り、それらの経験が主体的真理の体現だったのではないかと捉えてみることによって、主体的真理を捉えてみようとするアプローチです。

これまでの経験において、次のような要素をもつものをなるべくたくさん洗い出してみましょう。全ての要素が当てはまる経験ではなくてもよく、どれか1つの要素でも当てはまれば良いというくらいの気楽なイメージで、たくさん洗い出してみることをお勧めします。

①内なるエネルギーが湧いていた(少なくとも当時は)
②比較的長い時間、前向きに主体的に取り組むことができた(最初は、周囲からきっかけが与えられていたとしてもOK)
③充実感があった(楽しさというよりも、充実した・満たされた感覚。楽しさの要素があってもよいが、必須とは限らない)
④没頭感があった(我を忘れて取り組んだことがある)
⑤インスピレーションが湧いてきた

なぜ、この5つが経験を抽出する基準になるのかについて簡単にご説明します。まず、主体的真理は内なるエネルギーの源泉ですから、①の内容は主体的真理そのものの性質であると言えますし、②については、内なるエネルギーが湧くからこそ、比較的長期間、周囲に何も言われなかったとしても前向き、主体的に取り組めるということになります。

③については、主体的真理につながっているときの感覚で、覚醒度の高い短期の快感情というよりも、覚醒度が低めの安定した快感情という意味で、充実感という言葉を使っています。

④の没頭感については、(主体的真理が属する)直感意識につながっているときに現れるもので、思考意識を介することなく、あるいは、無意識に思考意識を介して、直感意識と身体意識がつながっている状態と捉えることができます。⑤についても、直感意識につながっているときに、起こりやすい現象でです。

どのような経験を思い出すでしょうか?私の場合は、次のような経験がリストアップされました。

▼テニス
 ・中学1年生から大学院!まで
 ・エネルギー、充実感、没頭感もあり
 ・インスピレーションは稀(やる気はあったが、センスはない)
▼物理・数学
 ・小学校高学年あたりから興味を持ち始めて、大学院まで
 ・エネルギーあり、たまに没頭感あり
 ・インスピレーションはたまに湧いていた
▼集団・チーム活動
 ・大学・大学院時代の6年間は、サークル活動に没頭。また、長男が小学生のときは、6年間ほど地元の野球チームのコーチをしていた
 ・エネルギー、充実感、没頭感あり
 ・インスピレーションが湧いてくることもあったが稀
▼教育ビジネスの起業
 ・2003年から現在に至る
 ・エネルギー、充実感、没頭感あり
 ・インスピレーションもたくさん湧いてくる
▼海外旅行・海外出張
 ・国の数は多くないが、毎月のように出張・旅行をしていた時期あり
 ・エネルギーは、その当時は湧いていた
 ・充実感や没頭感は、他に比べると少ない
 ・インスピレーションは湧いてきやすかった
▼学習
 ・何か新しいことを身につけることを、長期間やり続けている
 ・内容にもよるが、一旦やると決めると、エネルギーは持続する
 ・充実感はあり、没頭感は稀
 ・インスピレーションは比較的湧きにくい

経験の背景にある願いを捉える
これらの原体験は、具体的な経験ですから、主体的真理につながったものであったとしても、主体的真理そのものではありません。主体的真理を捉えるためには、これらの原体験それぞれの背景にある願いを捉える必要があります。

A. その経験において、内なるエネルギーの源泉には、どのような願いがあるか?
B. その経験において、どのような感覚を繰り返し得たかったか?
C. 似たような経験をしたとしても、何がなければ、内なるエネルギー・充実感・没頭感がなくなってしまうか?

それぞれの経験について、上記の問いのうち、ピンとくるものを選んで、願いを捉えていきます。

なぜ、この3つが願いを捉える問いになるのかについて簡単にご説明します。Aは、主体的真理の定義そのものですので、この問いに答えることができると、主体的真理あるいはそれが一段具体化された願いを捉えることができるかもしれません。

Bについては、主体的真理につながっているときの感覚を直感的・感覚的に捉えるイメージです。主体的真理や願いそのものを捉える問いではありませんが、直感的・感覚的に捉えることで、思考意識を介さずに感じることができやすくなります。

Cについては、いろいろなシミュレーションをしてみると、一番大切にしている要素を見つけやすくなる、面白い問いだと思います。これは、少しわかりにくいかもしれないので、私のテニスの例で具体的にご説明します。

▼仮に、テニスが卓球だったら?(テニスという要素がなかったら)
・・・没頭感・充実感はあまりなさそう。ただし、卓球をずっとやっていたとしたら、卓球でも良かったかもしれない。
▼仮に、スポーツではなく将棋や囲碁だったら?(スポーツという要素がなかったら)
・・・没頭感・充実感はあまりなさそう。仮に、将棋や囲碁をずっとやっていたとしても、スポーツという身体感覚を使う要素は欠かせない気がする。
▼仮に、勝負ごとの要素がなくなったら?
・・・練習をしているだけでも、没頭感・充実感はある。
▼仮に、社交場としてのテニスだったら?
・・・没頭感・充実感はあまりなさそう。テニスそのものに没頭したい。
▼仮に、テニススクールのみで教わるテニスだったら?
・・・充実感はあるかもしれないが、没頭感はなさそう。
▼仮に、相手が自分の実力とかけ離れていたら?
・・・楽しくはあるが、没頭感はなさそう。

このように考えると、「スポーツを同じくらいの実力の相手と、練習だけでもよいので、没頭してやりたい」というのが願いであることがわかります。この中でも同じくらいの実力の相手というのは、没頭するための条件ですので、要は「スポーツを没頭してやりたい」ということになります。スポーツというのは具体的表現ですが、その本質としては「身体感覚を伴った没入感」を求めているというイメージです。

このような形で一つひとつの経験について、願いを捉えていきます。私の場合は、次のようになりました。(自分で書きながら、自分の願いが少しずつ言語化されていくイメージがあります!)

▼テニス
・・・身体感覚を伴った没入感
▼物理・数学
・・・1つの法則で多くのものを説明できる美しさを見たい・感じたい
▼集団・チーム活動
・・・1人ではできない、集団やチームの力が発揮される瞬間を感じたい、見ていたい
▼教育ビジネスの起業
・・・本質を探求して、それが社会の基盤になる姿を実現したい、見てみたい
・・・1人ではできない、集団やチームの力が発揮される瞬間を感じたい
▼海外旅行・海外出張
・・・成長感を感じたい
・・・まだ見ぬ世界に触れてみたい、感じたい
▼学習
・・・成長感を感じたい
・・・新しい世界、新しい感覚に触れてみたい、感じたい

条件付けされたものを仕分ける
このように願いを捉えていくと、いろいろな願いが自分の中にあることがわかります。次にやると良いことは、条件付けされたものを仕分けるということです。

ここでいう条件付けというのは、周囲や外部から、その行動をとることが好ましいこととして条件付けされていることを指します。私たちは、生まれてから親や学校や近所の方から、いろいろな形で条件付けの影響を受けています。

例えば、勉強すると褒められる、あるいは、勉強していい成績を収めると褒められる、という具合で、褒められるという外部からの刺激によって、勉強するという自分の行動が強化されています。このような条件付けは、悪いことではありません。親からの教育や、学校における教育は、条件付けの要素がゼロにはならないでしょう。

条件付けによって、社会適応するための考え方や行動を習得することができます。主体的真理に生きることと、周囲や社会に適応して生きることは両方とも大切なことですから、条件付けは悪いことではありません。

しかし、主体的真理となると話は別です。主体的真理は、その人にとっての真理ですから、外部や周囲からの条件付けとは本質的には異なるものです。ですから、主体的真理と捉えようとするときに、外部や周囲から条件づけされているものをなるべく仕分けるようにする必要があります。

条件付けされたものか、そうではないかを仕分けるために、有効な観点があります。

仮に、それをやらない、意識しないとしたときに、恐れや不安という感情が湧いてくるかどうか?

なぜ、この問いが条件付けされたものを仕分けるのに有効かと言えば、これまでの人生における繰り返しの刺激によって、「それをやること、意識することが良いことだ。逆に言えば、それをやらない、意識しないことは良くないことだ」という具合に、「良いこと、良くないこと」の価値観が形成されているからです。

それをやらない、意識しない

↓←「それをやらないことは、良くないこと」という価値観

良くないことという認識

不安・恐怖

繰り返しになりますが、条件付けがあるからといって、悪いことではありません。むしろ、周囲や社会と調和して生きていくために必要な要素だったからこそ、条件付けとして今も残っているということができますし、いま健全に生活ができているとすれば、それは条件付けされていることのお陰と言っても過言ではないでしょう。

また、条件付けされているかどうかについて、0か100かという白黒はっきりした話ではありません。条件付けの要素が比較的多いか、比較的少ないかと捉えた方が適切かと思います。条件付けの要素が全くないものを見つけようとするよりも、条件付けが比較的少ないものの中で、自分にとって内なるエネルギーが湧いてくるものを探求していく姿勢が良いように思います。

さて、私の例のおいて、条件付けされた要素は「成長感を感じたい」という要素でした。私は、親から「勉強しなさい」と言われたことは殆どないように記憶していますが、幼少期から父や兄の姿を見て、学問の道に自然と向くようになりましたし、勉強をしたら褒められる、成長すると周囲の人から一目置かれるという感覚は、持っていたように思います。

そして、今も成長感をもつことによって、周囲の人から一目置かれるかもしれないという要素は、ゼロとは言い切れません。逆に、成長感を持てないことに対して、「そのままで経営者としてやっていけるのだろうか」というような不安もあります。

このように考えると、私にとって「成長感をもちたい」ということは、条件付けが比較的強いものであると言うことができます。それは、私の主体的真理からくるという部分が0ではないかもしれませんが、どちらかといえば、条件付けによって外部適応するために身につけてきた感覚なのだと捉えています。

ここまで、原体験から主体的真理を捉えていく方法について、お話をしてきました。私自身もこの記事を書きながら、改めて自分の主体的真理と捉えるプロセスをやってみた気づきが多くありました。みなさんも、お時間があるときに、是非ともこのプロセスを試して見ていただき、感想を共有いただけると嬉しく思います。

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2021.05.06