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なぜ、主体的真理に生きることが難しいのか?

前回までの記事で、「主体的真理に生きるとどんないいことがあるのか?」についてお話をさせて頂きましたが、今回は、「なぜ、主体的真理に生きることが難しいのか」についてお話します。
これまでのノートで、主体的真理に生きることで次のようないいことがあるということをお伝えしてきました。
▼主体的真理に生きるとエネルギーが内側から湧く
▼主体的真理に生きると縁がつながる
▼主体的真理に生きると、創造性を発揮しやすい
▼主体的真理に生きると、フロー状態を経験しやすい
このように考えると、主体的真理に生きるということは、それを目指さない理由はないように思います。しかし、主体的真理に生きるということは簡単なことではありません。あなたの中にも、(そして私の中にも)このような声が聞こえてくるのを無視できないでしょう。
▼目の前にやるべきことをこなすだけで精一杯
▼「やりたいことをやる」は理想論。現実には、たくさんの制約がある
▼生活(ビジネス)を成り立たせるのが先。夢物語は後。
湧き上がってくる声はさまざまですが、「主体的真理に生きること」に対して、「現実のやるべきことや、周囲から期待されること、周囲との関係性」との折り合いがつかないという難しさを感じる、ということは一致しています。
主体的真理に生きることと、社会や周囲と調和して生きることの矛盾
主体的真理に生きるということと、社会や周囲と調和して生きることには矛盾や葛藤が起きやすいのです。そして、この矛盾や葛藤が、主体的真理に生きることの難しさ、そのものなのです。
主体的真理に生きること
⇅(矛盾や葛藤)
社会や周囲と調和して生きること
社会や周囲と調和して生きることには、周囲との人間関係を良好に保つという意味だけではなく、生活を成り立たせることや、社会の決まりごとを守るということも含まれます。わたしたちが「でも、現実は、、、」というときの「現実」という言葉でイメージするもの全てが含まれています。
▼自分がやりたいことと、会社でやるべき仕事が乖離しているという矛盾
▼自分がやりたいことだけでは、自分(や家族)の生活が成り立たないという矛盾
▼自分がやりたいことを実現するためのリソース(体力、能力、資金、周囲の協力)がないという矛盾
このような葛藤や矛盾が1つもない人はいないのではないかと思えるくらい、主体的真理に生きようとした時にこのような葛藤や矛盾を抱えることはある意味で当たり前とも言えます。
ただ、このような矛盾や葛藤への対峙の仕方に、人による違いが大きく現れてきます。
矛盾するものに対峙したときに、妥協の世界観で捉える人もいれば、止揚の世界観で捉える人もいます。矛盾することに対して、妥協をしてどちらかの一部をとるのが妥協の世界観、矛盾を併せ呑んで、それが元とは別の形に昇華されて両立するのが止揚の世界観です。
この止揚の世界観、すなわち、主体的真理に生きるということと、社会や周囲と調和するという現実を、両立することができるストーリーがあるんだと思う(もう少し言えば、信じ込む!)ことが、主体的真理に生きる難しさを克服する一番の鍵となります。
主体的真理の社会実装の旅
止揚の世界観をもち、両立するというストーリーがあり得るということを少しでも思えた時、主体的真理の社会実装の旅が始まります。あくまでも、「主体的真理の社会実装」であって、「社会の出来事の、主体的真理化」ではありません。内なるエネルギーである主体的真理を出発点として、そのエネルギーを周囲と調和する形で広げていくというイメージです。
少し話がそれてしまいますが、「社会実装」という言葉に込めている思いをお話したいと思います。主体的真理に生きるという考え方と共に、私の中で結構大切にしていることが、この社会実装という言葉になります。この言葉は、自分の中で「これがやりたい、こうありたい、こうしたい、こう生きたい」というものを社会(自分以外の誰か)に対して具現化していくことを意味します。
なぜ「実現」とか「具現化」という言葉ではなくて、「社会実装」という、ちょっと物々しい言葉を使ってるかといえば、基本的には「実現」ということで良いと思っているのですが、願わくばそれが自分1人の中で完結するのではなくて、身の周りの人に少しでも良い影響を与えることができれば、その人にとって素晴らしいことなのではないかという思いがあります。
一方で、一番大切なのは主体的真理に生きるということだと思っているので、その主体的真理が自分の中に完結するものであれば、それはそれで全く構わないと思いますし、それを否定するものでは全くないと思っています。
ただ、願わくば、周りの人に影響を与えていく、そして、それを社会実装していく、ということにチャレンジしていける社会だと素晴らしいなと思います。そのような純粋な気持ちをもつ人が増えていけば、自分から周囲に影響を与えるだけではなく、周囲の人の主体的真理からいい影響を与えてもらうこともできて、それもまた1つの人生の醍醐味になるのではないでしょうか。
ところで、この記事の最初にもお話した通り、主体的真理に生きるということと、社会実装するというのは、相反する言葉とも言えます。
主体的真理は、極端に言えば、他の人には関係がない、自分の中における真理ということなので、自分の中で完結できる。逆に、社会実装というのは自分の中では完結できない。
そうすると、主体的真理を社会実装するといったときに一つの大きな矛盾があって、自分の中でいいと思っているものを、他の人にいいと思ってもらうという矛盾というか、(「張り」という意味の)テンションが起こります。
また、主体的真理というのは、自分の中での考えとか、直感とかひらめきとかイメージなど、客観的に見えるものではないけれども、社会実装というのは実装という言葉にある通り、目に見える形になっているものという矛盾やテンションもあります。
そういった矛盾やテンションがあるがゆえに、当事者たる自分というのは、そこのテンションや矛盾に対峙する必要があって、そこには自分が思い描いたものが常にすぐに実現するというものではなくて、思い描いて実現するときに色々な障害とかハードルが出てきて、それらに対して一つ一つ向き合って解決していく。
そのような葛藤に対峙する旅路のイメージ全体を包含して、「主体的真理の社会実装」です。
例えば、野球選手になりたいという子供がいて、その野球選手になりたいっていうのはその子供にとっての主体的真理であるとします。
その子供がプロ野球選手になろうとしたときに、簡単になれるかというとそうではなくて、野球をうまくなる必要もあれば、自分1人ではなくチームプレーができる必要もあれば、試合で活躍しなければいけないというのもあります。また、小学校から中学、中学から高校、高校からプロという各段階において、チームとしても勝った方が、スカウトの目にとまりやすいけど、チームの実力と自分の実力は必ずしも一致しないという現実もあります。
そのように、本人の意思だけでは必ずしもうまくいかない現実がありながらも、プロ野球選手になって多くのファンの人たちの前で、良いプレーをしたいと思って、努力を続けていくというのが、「葛藤に対峙する旅路」であり、「主体的真理の社会実装」なのです。
主体的真理の社会実装という旅を楽しむ
このように書くと、かなりストイックな、辛いストーリーを想像してしまうかもしれません。葛藤や悩みということが、一般的にはネガティブな印象がありますので、「葛藤に対峙する旅路」と言われると、とても辛いことのように思えてしまうことも頷けます。
しかし、葛藤や悩みというのは、本当にネガティブなものでしょうか。葛藤や悩みがあるというのは、裏を返せば、理想をもっているということではないでしょうか。そう考えると、理想があったり、目指したいことがあったりすれば、必ずといっていいほど、何らかの葛藤や悩みをもつことになります。
したがって、葛藤や悩みを持つことは必ずしもネガティブなものではなく、むしろ持っていて良いもの、当たり前のものと言えます。もちろん、葛藤や悩みによって自分のエネルギーが失われていくのは良いとは言えませんが、エネルギーを保ったまま葛藤や悩みに対峙していることは、とても健全な姿と言えます。
さらに、私の記事のコンセプトである「意識の意識化」と結びつくことによって、矛盾やテンションやストレスというものを前向きに捉えて、チャレンジしていけるような「楽しい冒険の旅」というイメージを持つことができます。
「主体的真理の社会実装」という自分の人生の旅路を、「意識の意識化」によって「楽しい冒険の旅」として「いまここを味わいながら生きていく」ということが私がもっとも実現したいことになります。
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