COLUMN コラム

主体的真理に生きると、どんないいことがあるのか?②

落合文四郎
Alue co.jp CEO
2021.05.01

前回の記事では、主体的真理に生きることによって、内なるエネルギーが湧くということと、縁がつながるということをお話しました。今回も、主体的真理に生きることによって、どんな状態になるのか、どんないいことがあるのかについてお話します。

主体的真理に生きると、創造性を発揮しやすい
主体的真理に生きると、創造性を発揮しやすくなります。これには、いくつかの要因があります。

1つ目の要因は、常識や既存の枠組みに捉われなくなるということです。主体的真理に生きるということは、(客観的な真理とは限らない)自分にとっての真理を大切にするということですから、世の中の常識や、周囲からの見え方などの要素を必要以上に気にしなくても済むようになります。

常識や固定観念にとらわれると、創造性を発揮しにくくなるというのは、みなさまも実感を持たれていることでしょう。「こうあるべき」「これが普通である」という考えが強すぎると、それとは異なる新規性のあるアイディアや捉え方を否定してしまったり、そもそも情報の認知ができなくなってしまいます。

(Albert Einstein statue details on display inside of Museum of Cosmonautics at Moscow in Russia.)

「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
(アルバート・アインシュタイン)

アインシュタインの相対性理論は、それまでの常識となっていたニュートン力学において前提としている「時空間の絶対性」に疑問を投げかけたことで生まれてきた理論と言えます。アインシュタインは、自分の主体的真理に生き、世の中の常識にとらわれなかったことで、大いなる創造性を発揮することができたと言えるでしょう。

2つ目の要因は、認知する情報の量です。主体的真理に生きると、外界からの情報の収集について、アンテナがたちます。同じものを見ていても、同じことを聞いていても、アンテナが立っているかどうかによって、認知される情報の量が違います。

いつも歩いている道路を歩くときに、「丸いもの」とか「赤いもの」などと意識しながら歩いてみてください。すると、「こんな木や花がここにあったんだ」とか「同じ街灯が並んでいると思っていたら、よくみたら一つひとつデザインが違った」など、新しい気づきを得ることができることと思います。

これと同じで、主体的真理というテーマをもっていると、そのテーマに関する情報が自然と入ってくるようになります。ニュースを見ていても、同僚や友人と他愛のない話をしていても、街中の様子を見ていても、主体的真理に近しいテーマの情報はアンテナに引っかかって入ってきます。

私が最近感じた例を一つご紹介します。それは、「センス」についてです。ある勉強会に参加したときに、センスという言葉がでてきて「センスとはスキルではないものである」という話をされていました。そして、「センスは、スキルを習得することでは身につかないものである」という話もありました。(これは、全くその通りであると思います)

これとは、全く別の場である、地元の少年野球チームのコーチ陣とのメールのやりとりで、「野球のセンス(打撃センスや、投球センス)を教えるのは難しい」という話をしていました。(これも全くその通り!)

これは不思議な感覚なのですが、同じようなタイミングで、異なるルートから、似たような情報が入ってくることがあります。一つひとつは、表面上違うことが多いのですが、その本質は似ています。

「センス」の例でいえば、「センスというものは、スキルとは違い、教えることが難しいものである」ということは、異なる二つの場面であっても共通している内容です。

そのときに、私に問いが生まれます。「センスとは何か?センスは本当に教えることが難しいものなのだろうか?」と。それは、私にとって「本質探求」が主体的真理のエネルギーの1つであり、また、教育ということをライフワークとしてやっているので、「センスの獲得」に関する情報がアンテナに引っかかってきて、問いが生まれたのだと思います。

このような問いを持ちながら仕事をしている中で、今度は社内の部門長との目標設定面談がやってきます。目標設定をする面談の対話の中で、「この半期は、いかに全体感を掴みながら、当社と部門の次の成長につながる課題設定をするかがポイントだね」という話をしました。

そのときに、ふと思ったのです。「あ、これがセンスだ」と。部門長の方に求めているのは、「個別のスキル」ではなく「全体を捉えるというセンス」だなと。しかも、それは磨くことができるという前提で自分は話をしているし、部門長の方もやればできそうだと思っているなと。

その面談の後に「センスとは何か?」についての仮説が言語化されました。

センスとは、普通の人には見えていない全体感が掴めているということ
(落合の仮説)

普通の人には見えていないから、「先天的なもの」とか、「身につけることは難しい」という見え方になるのだろう。しかし、センスは全体感が掴めているだけという話なので、誰でも磨くことはできるものだろう。ただし、論理的・手続き的なプロセスで習得できるものではない、という難しさがあるだけなのだろう。これが、センスに関する私の現時点仮説です。

この仮説の是非はさておき、主体的真理に関わるテーマのアンテナが立つことによって、多くの情報を認知することができ、そこから問いが生まれて、アイディアの種を見つけやすくなるという一つの例としてご紹介しました。

3つ目の要因としては、人とのつながりを通じて、異質なアイディアを得やすくなるということです。主体的真理に生きると、共感ベースの人的ネットワークが広がりやすくなるという話を前回の記事でお話ししました。そして、共感ベースの人的ネットワークにいる人たちと対話をすると、自分では考えつくことができない異質なアイディアを得ることができます。

ここでいう異質なアイディアとは、もう少し正確に表現すれば、(主体的真理に関わる)同じテーマに関する異質なアイディア、を指します。

この「(大枠でいえば)同じテーマ」ということと「異質なアイディア」ということの両立がポイントで、「同じテーマの同じようなアイディア」では新しいアイディアは生まれにくいですし、「全く分野が異なる異質なアイディア」というものは刺激にはなりますが、1つの問いや1つのコンセプトとして結合しにくくなります。

主体的真理に生きることによって、得られる共感ベースの人的ネットワークは、この「(大枠でいえば)同じテーマ」ということと「異質なアイディア」という2つが両立した貴重な情報を提供してくれるのです。

このように、①常識や既存の枠組みにとらわれにくく、②普段の生活においてアンテナにひっかかってくる情報の量が多く、③共感ベースの人的ネットワークから「同じテーマの異質なアイディア」を得ることができる、ということから、主体的真理に生きると創造性を発揮しやすくなるのです。

主体的真理に生きると、フロー状態を経験しやすい
あなたが、我を忘れるような経験、時間感覚が通常と異なるような感覚を味わう時があるとすると、それはどのような瞬間でしょうか?

私自身は、良質な問いに巡り会い、その思索に没頭しているときと、大好きなテニスをやっているときに、自分の調子も良く、相手との実力も均衡していているときに、我を忘れて、時間感覚が通常と違うような感覚をもつことがあります。意識的に再現できるわけではないのですが、このような場面で自然とそのような感覚を得ることが多いという印象です。

このように、ある活動に没頭して我を忘れてしまうようなことを、フロー状態と呼びます。

フロー状態の定義
ある活動に没頭しており、他の何事も気にかけることがない状態であり、その活動をしていたくて仕方がないので、たとえ大きな犠牲を払ったとしてもやり続けたいと思うような楽しい経験のこと
(Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience )

フロー状態にあるときの主観的感覚の特徴
▼今この瞬間にしていることに集中している
▼行動と意識が融合して、一体となっている
▼内省的な自己意識の喪失(社会的役割を担う感覚の喪失)
▼自分の行動をコントロールできるという感覚、つまり、次に何が起きても、どのように対応すればよいかを知っているので、基本的に状況に対処できるという感覚
▼時間的経験の歪み(一般的には、通常よりも早く時間が経過しているという感覚)
▼その活動が本質的にやりがいのあることと感じており、最終的なゴールがプロセスの口実になっていることが多い
(Nakamura, J. & Csikszentmihalyi, M. (2002). The Concept of Flow )

このような感覚をもつことができた経験にはどのようなものがありますか?と問われれば、いくつかの鮮明な記憶と感情と共に、その瞬間を思い起こすことができる人が多いのではないでしょうか。

フロー状態の感覚は、それ自体で楽しく、幸福感・充実感を伴うものです。まさに生きている感覚がする1つの事象と言えるのではないかと思います。

なぜ、フローの話をしているかと言えば、主体的真理に生きるほど、フロー状態を経験しやすいと考えるからです。3+1意識モデルで考えると、フローは直感意識にある主体的真理と、身体意識の快感情が直接的に結びついている状態であると言えます。

主体的真理とつながっているので内なるエネルギーが湧いてきます。そして、それが快感情につながっているので、楽しさや幸福感と共に、継続することが促されます。そして、そこに思考意識の介在がほとんどありません。

通常は、思考意識による認知・判断のプロセスを踏まえることによって、直感意識と身体意識の調整弁となったり、外界と内界の調和を図ります。

しかし、フロー状態においては、このような思考意識による調整が不要な状態であり、直感意識と身体意識のみが活性化していて、それでも尚、意識間の不整合がおきず、外界と内界の不整合もおきていないということがが起きます。

フロー状態の特徴にある、行動と意識の融合や、時間感覚の喪失というのは、思考意識の介在がほとんどないことを象徴しています。(ちなみに、時間感覚は、思考意識によるものと私は考えています。この話は、また別の機会に)

ここで強調したいのは、主体的真理につながっていることがフロー状態を創るエネルギーの源泉になるということです。「やるべきこと」「できたら評価されること」という思考で作り上げたものに没頭しようとしても、フロー状態に近くことは難しいと言えます。そこには、内なるエネルギーが湧かないからです。

このように、主体的真理に生きることで、フロー状態という人生の至高の経験の1つを持ちやすくなります。主体的真理に生きるということの究極の形は、フロー状態が定常的に続くことであるというのは、少し言い過ぎかもしれませんが、私はそのようなイメージを持っています。

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2021.05.01