COLUMN コラム

主体的真理とは何か?

落合文四郎
Alue co.jp CEO
2021.04.27

今回の記事では、主体的真理とは何かについてお話します。以前の記事において、私のそもそもの課題意識として、日々の仕事における主体的真理とのつながりが感じにくいということをお話しました。

そもそも主体的真理とは何か?自分の主体的真理を探求していくにはどうしたらいいか?ということをこれから考えていきたいと思います。

主体的真理とは、北極星でありコンパスである

まず、主体的真理とは何かについて考えていきたいと思います。

主体的真理の定義(落合の考え)
自分にとって生きがいとなる理想、自分固有の生きる目的。あるいは、それらの理想や目的につながる「いまここ」の方向感。

主体的真理の一番大切なところは、「自分にとっての真理」であり、誰にとっても正しい客観的真理とは異なるということです。自分にとって良いこと、楽しいこと、目指したいこと、幸せに思えることは、必ずしも、世の中で言われている「いいこと、目指すべきこと、幸せとされていること」とは同じではないということです。

主体的すなわち自分にとって長い時間軸で、あるいは、ずっと希求していきたい何か。あるいは、それに没頭していること、それとつながっていること、眺めていることが、幸福感・充実感をもたらすようなものが主体的真理です。

そして、主体的真理に生きるということは、自分にとっての希求したい真理・真実・ありたい姿へのつながりを感じながら、生きるということ。万人にとっての真理(客観的真理)ではなく、自分にとって生きがいになる理想、自分固有の生きる目的(主体的真理)が重要だというキルケゴールの思想が源流となります。

(Soren Kierkegaard Statue in the Royal Library Garden,Copenhagen, Denmark)

主体的真理をもう少しわかりやすく比喩的に表現するならば、「主体的真理は北極星である」と言えます。自分の人生を船旅として捉えた時に、北極星は船旅として向かっていきたい方向性を指し示します。船旅の道中で自分がいる場所が変わっても、時間が経過しても、北極星はその方向性を示すという意味において、主体的真理の本質をよく表現しています。

別の表現をするならば、「主体的真理はコンパス(方位磁針)である」と言うこともできます。先ほどと同様に、自分の人生を船旅として捉えた時に、コンパスは船旅として向かっていきたい方向性を指し示します。北極星と近いメタファーではありますが、コンパスは今この瞬間でどちらの方向にいくのがいいかという「いまここ」の方向感を示すニュアンスがあります。これも、主体的真理の本質をよく表現しています。

北極星という捉え方とコンパスという捉え方のどちらがしっくりくるかは、性格タイプによって違うように思います。大枠のありたい姿や将来像を想定したいタイプの人は、北極星という捉え方がしっくりきて、その時々の環境や状況に応じて臨機応変に対応したいタイプの人は、コンパスという捉え方がしっくりくるのではないでしょうか。どちらの捉え方でもいいので、自分なりに、しっくりくる方で捉えていただければと思います。

「主体的真理」という言葉との出会い
私自身が、この主体的真理という言葉に出会ったのは、2008年の出来事でした。妻の祖父が他界したときに、義父(妻の父)が妻と、妻の兄弟と自分に伝えた言葉が主体的真理でした。

妻の祖父は、一般的な言われ方としては「自由人」だったのだと思います。乾物屋さんを営んでいましたが、1日の仕事は朝早くの卵の仕入れ。1日のお店番は奥さん(妻の祖母)に任せて、自分の好きな写真(晩年はビデオ撮影)と読売ジャイアンツの応援に没頭していたそうです。

息子(妻の父)が、就職したタイミングで乾物屋を閉め、そこからは写真・ビデオ撮りと読売ジャイアンツに生きる日々。妻と私の結婚式も、ビデオ撮影・編集をしていただき、7-8巻にわたるVHS作品として今も我が家にあります。

2008年に妻の祖父が他界したとき、義父が妻と、妻の兄弟と私に話した内容を今でも昨日のことのように覚えています。

「おじいさんは、ビデオ撮影とジャイアンツの応援をすることが生きがいで、毎日毎日自分が本当に好きなことに生きた人だった。きみたちも、お爺さんのように主体的真理に生きる人生を歩みなさい」

学者の義父らしく、主体的真理の原典として、キルケゴールの書籍を引用した紙も渡してくれました。そこから、私は主体的真理という言葉を使い始めました。アルー株式会社のミッションを語る場面、私自身の夢を語る場面において、この主体的真理という言葉を用いるようになり、今となっては私自身のコアな部分を表現・体現する言葉になっています。

私自身の主体的真理
私自身は、どのような主体的真理に生きたいと思っているのかについてお話をしたいと思います。ただし、前提として、主体的真理は、内なるエネルギーの塊のようなものなので、その全てを言語化できるものではないと考えています。ですから、言葉で表現をしようとした瞬間に、その一側面を捉えているに過ぎないものになってしまうという限界がありますが、なるべく純度高く言葉にしていきたいと思います。

私自身の主体的真理をなるべくそのまま純度高く表現すると、「本質追求による大いなるものとの一致感」となります。ここに私のエネルギーの源泉があります。小学生の頃から、大学院時代まで(そして、今も)好きな物理学は、世の中の事象の理(ことわり)という本質追求という意味において、私にとってエネルギーが湧くものでした。

「大いなるものとの一致感」というのは、世の中全体に適応されるような大きなもの(例:物理法則、社会的インフラなど)に触れていることができる、眺めることができる、発見や実現に寄与することができるというイメージです。

この「本質追求による大いなるものとの一致感」ということを具現化するフィールドが、小学生から大学院までは物理学であったのに対して、起業してから今に至るまでは、教育をフィールドとしているということになります。

こちらの記事でもお話をしましたが、現時点の私自身の主体的真理をより具体的に表現すると、「主体的真理に生きる人がたくさんいる社会に貢献すること」となります。将来像すなわちヴィジョンとして、この内容をもう少し大げさに表現すると「SDG4(全ての人に質の高い教育を)を実現する世界的教育インフラを構築する」となります。

【私自身の主体的真理(を最大限純度高く表現したもの)】
本質追求による大いなるものとの一致感

【上記の主体的真理につながりながら、ヴィジョン的に言語化したもの】
▼主体的真理に生きる人がたくさんいる社会に貢献すること
▼(もう少し大げさに表現すると)
SDG4(全ての人に質の高い教育を)を実現する世界的教育インフラを構築する

どのような抽象度・具体度合で主体的真理を表現するか、言葉にしておくかについては、人それぞれ心地よいレベルで十分と思います。主体的真理とのつながりが感じられることが一番のポイントですから、それが感じられるレベルで意識化・言語化しておくのが良いでしょう。

それは主体的真理だろうか?
自分にとってありたい姿や成し遂げたいこと、やり続けたいこと、やっていて楽しいことなどはあるけれども、これは主体的真理と言えるのだろうか?

このような疑問を持たれる方もいるのではないでしょうか。主体的真理は、あくまでも自分にとって心の底からそのように思えるものであれば良いのですが、自分が本当にそう感じているのか、必ずしも確信を持てる状態ではないという人も多くいます。

前提として、主体的真理が常に明確でなければいけないというものではないということを確認させてください。主体的真理は、意識的につながりを感じられると充実感や幸福感が高まるものではありますが、それが明確に言葉にできないからといって、充実感が感じられないとか、幸福感が下がるというものではありません。

むしろ、すぐに言葉にできるようなものではなく、自分なりに試行錯誤したり、経験を積みながら、探求していって、段々と明らかになってくるようなものです。

このような前提のもとで、自分が今感じていること(「それ」と呼びます)が、主体的真理に近いものかどうかを確かめるいくつかの問いがあります。

▼「それ」に繋がりを持てているとき、自分の内なるエネルギーが湧いてくるか?(エネルギーの湧出)
▼周囲に反対する人がいても、「それ」に繋がっていたいか?(主体性)
▼「それ」は、これまでも(形を変えながらも)繰り返し起こっていたことか?また、これからも繰り返し起こってもいいと思えるものか?(時間軸の長さ)
▼自分以外の誰かが、「それ」に繋がっていたり、「それ」を実現したりしたとしても、「それ」を眺めているだけで良しと思えるか?(エゴとの切り離し)

これらの問いに対して、「YES」と心の底から思えるものであればあるほど、「それ」は主体的真理に近いと言えます。一方で、「YES」と言い切れないものがあるからといって、主体的真理ではないと決めつけるのではなく、そこにはさらなる探求のポイントがあると捉えると良いでしょう。

主体的真理は、ある瞬間に全てが言語化されるというものではありません。自分のエネルギーが湧出する源について、少しずつ探求を深めていくというイメージに近いです。ですから、上記の問いに対して、全てが「YES」でなかったとしても、部分的にでも「YES」があるならば、それは主体的真理を探求する旅の入り口に立っていると言えます。

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2021.04.27